社長からの手紙
うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ2013/09/1
今夏は暑い暑い立秋を迎え、この手紙を書いています。この三十年間、お盆に皆さんへ送る手紙の内容はほとんど戦時中・終戦時の話だったような気がします。もちろん、私は戦後生まれですから戦争体験はありません。三十年も前の当社には、戦中派の従業員さんがまだたくさんいました。真夏の現場で麦茶を飲みながら、その先輩方からよく戦争中の話を聞いたものです。当時、慰安旅行で長崎方面へ向うバス車中の歌合戦では、必ず♪長崎の鐘♪が熱唱されました。ご存知の方も多いと思いますが、長崎被爆の折り身命を賭して被爆者医療に携わった永井博士の実話に啓発されたサトーハチローの詞に作曲家の古関先生が曲を付け、国民歌手・藤山一郎が歌唱したものです。敗戦に打ちひしがれた国民にとって、きっと並木路子の♪りんごの唄♪に並ぶ応援歌であり、希望済世の歌でもあったのでしょう。 当時、土居町の生保ビル清掃を独りで担当していた○○さんのことを思い出しました。清掃控え室は、屋上の機械室に間借りしたものでいつも暗い裸電球の下で昼食弁当を一人で食べられていました。お誕生日に百円ケーキを携え、控え室への階段を上っているとき、○○さんの鼻歌が聴こえてきました・・「なぐさめ はげまし あぁ長崎の鐘が鳴る」・・でした。後日、長崎島原の小浜温泉へ慰安旅行に出掛けたとき、宴会後に海岸を散歩しながら○○さんの昔話を聞きました・・夢多き少女時代に長崎原爆に遭い一家離散したこと。顔面に負った火傷のために女としての幸福の道が閉ざされたこと。決して“恨み節”などではなく、淡々とした半生記でした。 昭和26年の第1回紅白歌合戦の大トリで、藤山一郎はこの♪長崎の鐘♪を歌ったのでした。